「意味をこえる身体へ:ショットムービープログラム」上映会

距離の余白を問いなおす
ショットムービーの上映会を開催する。ショットムービーは、
アートプロジェクト「東京で(国)境をこえる」において、
2021年の7月から本格的に開始した共同制作プロジェクトである。

ショットムービーとは聞きなれない言葉の組み合わせかもしれない。
この言葉は、ショット(shot)とムービー(movie)を組み合わせた造語であり、
映画における物語とそれらの構成要素──俳優のふる舞い、
表情、演出や撮影の偶然性など──の関係性について考えるという意図が込められている。

このプロジェクトを貫いている主題のひとつは「距離」である。
これは作品の主題であると同時に、撮影の条件や参加者同士の現実の人間関係にも響いている。

たとえば、作品1「八月対談録」の制作にあたっては、俳優と制作者は一度も直接会っていない。
すべて、zoomや自撮りやSNSなどの遠隔技術を使って撮影されたものである。
遠隔での制作をふまえた上で、作品2「変奏」は、すべて対面で撮影された。
作品1から作品2への移行において見出されたのは、物語的な変化のみならず、
実際に会うことそのものによって生じる質やリアリティであった。
これらは、一定期間遠隔に限定してそれなりに密なコミュニケーションを取った相手と
実際に会ったときに生じる、身体的な質感であると言えるだろう。
それは親密さ、緊張感、ぎこちなさなどが混ざり合った感情かもしれない。
そして、こうした質感の生成は作品内に限られたものではなく、
実際の人間関係ができていく過程においても通じる話である。

人と人の距離は、つねに変数としての余白を含んでいる。
たとえば過ごした時間が長い相手とのあいだには親しさや信頼関係が生じることもあれば、
たったひとつの否定的な出来事によって築かれてきた関係性が崩壊することもある。
人間関係における距離の余白は、関係性をつくると同時に壊す可能性を内包している。
それは、創造的でもありかつとても脆いものでもある。
そして、現代では距離感における否定的な側面が強調され、
親密さを生成するような関係性よりもどちらかと言えば単純化したやりとりが増えている。
しかし他者との関係性においてトラブルを回避しようとコミュニケーションを平板化することは、
同時に創造性を回避することにもつながる。

人と人が知り合うなかで親密さが立ち現れるときの危うさ、もろさ、
それでも少しの希望を抱くこと。
この上映会が、そんなことを考えるきっかけになればと願っている。

長谷川祐輔
(「意味をこえる身体へ:ショットムービープログラム」プロデューサー)

2022年5月7日